

美多彌神社は延喜五年(905年)醍醐天皇の命により藤原時平らが編纂を始め延長五年(927年)に完成した『延喜式』の九巻・十巻『延喜式神名帳』にその名を連ねる式内社であり、和田郷(にぎたのさと・令制国の和泉国北部に由来する地域名所で現在の大阪府南部中央に位置する)の郷氏神として崇められ、御祭神には中臣氏(藤原氏)の祖先神である、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を奉祀し、明治時代の神社合祀により、須佐之男命・菅原道真公・天之水分大神・厳島神・大国主大神・熊野大神・琴平大神・八幡大神を合わせ祀っております。
当神社の社名の由来は平安時代初期の弘仁六年(815年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑『新撰姓氏録』『和泉国神別条』に記載されている『民直(みたみのあたい)』からとされております。民直氏族は「天児屋根命の後裔とされ、民(みたみ)は美多彌(みたみ)と訓を正す」と記されています。天児屋根命を祭神とし、社名の起こる由縁であります。
民直小鮪(みたみのあたいおしび=生没年不明)は、飛鳥時代の人物で、壬申の乱(672年)の時、大海人皇子(天武天皇)側につき、河内から倭(大和)に来る敵を防いで連戦しました。民直小鮪はこの後も大友吹負のもとで戦ったと考えられますが、その様子は日本書紀には現れません。また民直氏族は天武天皇側の人物史に民直大史なる人物と記されています。
またその神奈備(かんなび=神霊の鎮まる場所で特に神聖な森や山を指す。古代では常設の社殿は存在せず祭場となる特定の場所が聖域として区別されていた)は神聖で立派な木々が多く繁っていた事から『王森』と呼ばれ、後醍醐天皇の御代には三万坪にもわたる広大な境内を持ち社頭輪奐(建物の壮大華麗な様)を極めたる神社であったと言われています。